ベトナムの歴史を探る
ベトナム人の大部分を占める京族(キン族)は何処から来たか?
住民の84%を占めるベトナム人がいつの時代からソンコイ・デルタを占拠したかは不明である。
ベトナム語はアウストロアジア語族の中では最も北方に位置するから,かつての定説であった南方中国からの移動説をもって説明するのには苦しい。
むしろ前農耕文化の時代以来,デルタ北西方の山地に居住していたとみられよう。
この地域からはホアビン文化と呼ばれる新石器時代の遺物が大量に発見され,その一部は前8000年に比定される。ホアビン文化の末期に接続してフングエン Phung Nguyen 文化が段丘上に広がり,青銅器が随伴出土する。ベトナム考古学会では,
この文化を伝説のフンブオン(雄王)時代に比定している。青銅器文化は紀元前後の数世紀にわたるドンソン文化において開花し,特徴的な銅鼓が段丘,残丘部から発見され,これがほぼベトナムの歴史時代に重複するといわれている。
北属期と言われたのは何時ごろか?
前111年,漢の武帝は当時広東に都していた南越王国を滅ぼし9郡を設置したが,このうち交趾,九真,日南の3郡はほぼ現在のソンコイ・デルタ, タインホア・デルタ,中部ベトナム(ビンチティエン省)にあたる。
この地はもと般越(らくえつ)と呼ばれ,ラクディエン(般田)を耕作し,般民,般将,般侯,般王という身分制秩序をもっていたといわれる。
紀元2年の人口統計では,交趾郡に74万6237口(口は人を数える単位)が登録され,中国南半では際だって人口の密な地域であった。すぐれて発達した自然堤防を利用したデルタ開拓がかなり進んでいたことを示すとともに,当時の中国の上流階層の欲した真珠,タイマイ(玳瑁),犀角などの生産地であり,かつ南海諸国への玄関であった地理的特性がこの人口集中をもたらしたのであろう。
42年に土着的な支配者のチュン(徴)姉妹の対漢反乱が馬援によって弾圧されると,この富んだ地をめざして大量の中国人が移住し,支配階層を形成,北部ベトナムに大量の漢墓を残した。後漢末,中国本土に群雄が割拠するや,この地の中国人はシーニェプ(士燮)を立てて自立した。
この勢力はシーニェプの死後,呉に滅ぼされるが,最南方の日南郡に自立した現地人首長の区逵(おうき)は林邑王国の建設に成功し,おりからモンスーンの利用が始まり,これによって活発化した東西交渉の中継国として繁栄していく。
3世紀ころから中国の支配はしだいに山地まで覆うようになり,7世紀に現在のハノイ付近に安南都護府が置かれたときには,39県のほかに60ほどの覊縻(きび)州があった。
この拡大は,当時雲南にあって,南方交易の陸路の要であった南詔の勢力との衝突を招き,9世紀に安南都護府が陥落した。
ベトナムで話にでる”ハイバンーチュン”とはこのチュン姉妹のことである。
中国からの独立
唐周辺諸民族の活性化の渦の中,唐末の内乱によって広東に南漢政権が生まれるや,ベトナムでも土豪クック(曲)氏が節度使を称して自立した。
クック政権はまもなく南漢に滅ぼされるが,938年ゴ・クエン(呉権)は南漢干渉軍を破って独立確保に成功した。
ゴ・クエンの死後,各地の土豪(スークアン(使君)と呼ばれた)の割拠時代を経て,966年下部デルタ水上勢力の雄ディン・ボ・リン(丁部領)が諸勢力を平定して,ホアル(華閭)に都し,国号をダイコベト(大瞿越)と称した。
"バクダン”という言葉がよく出てくるが この”バクダン”は古戦場のことである。
リンの死後,レ・ホアン(黎桓)が帝位を奪い,宋の干渉軍をバクダン川(白藤江)で破り他方,中部ベトナムに栄えていた林邑の後継であるチャンパに遠征して南辺を固めた。
993年宋はホアンを交趾郡王に封じ,その独立を承認した。この前レ(黎)朝もまた1009年リ・コン・ウアン(李公蘊)に簒奪された。ウアンは都をタンロン(昇竜。現在のハノイ)に移し,国号をダイベト(大越)とし,初めての長期安定政権リ(李)朝を築いた。しかしその実態は集権政治にはほど遠かった。直接支配地はソンコイ・デルタの一部にすぎず,ほかは各地の土豪が半独立的に支配していた。リ朝はこれに対抗して,仏教,儒教の導入,律令の制定を試み,外には宋の侵略を破り,チャンパを討ってクアンチビン地方を奪った。
この急速な王権伸張と土豪割拠の矛盾は,13世紀初めの内乱を生み,1225年リ朝は下部デルタの水上勢力を握るチャン(陳)氏に簒奪された。
この内乱の過程で,各地の土豪勢力はチャン一族に代わられた。
しかしそれもおのおの私領と私兵を有する封建領主的なものであった。 したがってチャン朝の実権者は一族の長である上皇であった。
13世紀末,元は3次にわたってベトナムに侵入したが,これを迎撃して大敗させたのはチャン・フンダオ(陳興道)ら一族の領主たちとその私兵であった。
対元戦に勝利したのちは,門客と科挙出身官僚の力が伸張し,これを糾合したホー・クイ・リ(胡季子)が1400年帝位を簒奪した。
ホー(胡)朝は次代の集権制を準備したが,07年明の干渉を受けて滅亡した。
ベトナムの再独立は1428年にハノイの明軍を破ったレ・ロイ(黎利)によって達成された。レ(黎)朝第4代レ・タイントン(黎聖宗。在位1460‐97)の下に,ベトナムは律令的集権国家の体制を整備した。田土の大部分は公田とされて農民に割替分給され,代りに耕作納税が強制された。
律令官僚制が導入され,刑律が制定され大規模な堤防が整えられ,村落はサー(社)に組織化された。
しかし,急速な集権化はタイントンの没後,反動を呼んで宮廷内紛が頻発し,1527年軍権を握ったマク(莫)氏が帝位を簒奪した。これに対し,ラオス,タインホアに拠るグエン・キム(阮淦)はチン(苫)氏とともにレ朝後裔を擁立して抵抗し,ベトナムは長い内乱期に突入した。92年レ=チン勢力はハノイを落としたが,マク氏は北方山地にこもって割拠し,グエン・キムの子ホアン(瑳)はフエに拠って自立し(クアンナム(広南)朝),3者の争いは19世紀初頭まで続く。
これらのチュア(主。実権を握った武人をチュアと呼んだ)政権下の争いの中に,村落は自律性を強め,かつての公田は村落共有田に転化した。また17世紀の東西交渉の発展は,フォヒエン(フンイェン),フェイフォ,トゥーラン(ダナン)などの国際貿易港を生んだ。
しかしその一方で,村落の内部からは無産農民が発生した。戦乱と天災は彼らを流民化させ,18世紀中葉以降のレ・ズイ・マト(黎維浄)らの反乱を生んだ。
ベトナム最後の王朝グエン朝
1771年クイニョンに起こったグエン(阮)3兄弟によるタイソン党革命は,75年クアンナム朝を滅ぼし,次いで86年グエン・バン・フエ(阮文恵)はチン氏を倒し,レ帝を中国に逐い,さらに89年には清の干渉軍をハノイに大破した。タイソン・グエン朝下,ベトナムでは土地改革が行われ,チュノム(字喃)文学が栄えたといわれる。
18世紀以降,クアンナム朝のナムティエン(南進)政策によって,ハティエンなどの中国人王国が服属し,メコン・デルタはベトナム領となっていた。
1787年より,クアンナム朝の皇子グエン・フォック・アイン(阮福暎。のちのザロン(嘉隆)帝)はベーヌなどフランス義勇軍とタイの援助を得てこの地に拠り,グエン・バン・フエの死後,急速に北上して1802年,全土を平定した。
このグエン(阮)朝の成立で現ベトナムの骨格が生まれたといえる。
グエン朝では,皇越律例など清の制度の導入が積極的に行われ,とくに2代ミンマン(明命)帝の時代,行政制度の中央集権化が進教した。
その反面で,行政最下部のサー(社)では,納税と引換えにその自律化が進み,指導者バンタン(文紳)層の権威が高まった。
しかし流民問題は解決できず,多くの反乱を生んだが,とくに4代トゥドゥック(嗣徳)年間の水匪の乱や黒旗軍など太平天国残党の南下は,北部一帯を大混乱に落とし込んだ。おりから極東進出の足場としてベトナムをねらったフランスは,1862年の第1次サイゴン条約によってメコン・デルタを奪い,フランス領コーチシナを成立させた。
さらに73年のガルニエ事件に続く第2次サイゴン条約,83年のリビエール事件に続く2次にわたるフエ条約によって,北部をトンキン保護領,中部をアンナン保護国として,植民地化することに成功した。
そして1887年にはカンボジア保護国を加えてフランス領インドシナ連邦が成立した。
フランス植民地時代
フランスの侵略に抗して,1885年ハムギ(咸宜)帝はトン・タット・トゥエット(尊室説)らと山地にこもってバンタンの蜂起を呼びかけ,北部・中部一帯に農民蜂起が広がった。これに対し,植民地総督のベール,ラヌッサンらは村落の自律性とバンタンの権力を認める協同政策を推進し,このためデ・タムらを除いて,ソンコイ・デルタの反乱は終息するが,村落の封建的構造は固定化された。
一方,南部のコーチシナでは,米田プランテーションが急速に発達し,ターディエン(借佃。小作人)制が生じた。
こうしてベトナムは北部と南部という典型的な植民地下二重経済構造をつくりあげた。20世紀初頭,ファン・ボイ・チャウのドンズー(東遊)運動,ファン・チュ・チンの維新運動など,民族運動の近代化を志向する運動が起こったが,前者の革命路線も後者の啓蒙的改良運動もともにフランスの弾圧によって潰えた。
第1次大戦後,インドシナへの投資が拡大し,北部の鉱業,中南部のゴムのプランテーション,南部の米作の急激な発展は,労働者階級やサイゴンの地主,精米・輸出業者などのブルジョアジー,さらに知識人層を生み出した。
この社会変容を背景に,1925年ホー・チ・ミンによってベトナム青年革命同志会が生まれ,これを母体に30年ベトナム共産党が成立し,またグエン・タイ・ホクのベトナム国民党が生まれた。共産党は30‐31年のゲティン・ソビエトの壊滅によって一時打撃を受けたが,チャン・バン・ザオが南部の組織を再建し,タ・トゥ・タウらトロツキスト派と統一戦線を組んでサイゴン市会選挙などに進出した。
しかし38年に大弾圧を受け,地下に潜った。
太平洋戦争時日本軍が仏印に進駐する。
40年日本軍がインドシナに進駐するや,共産党はバクソン蜂起によって軍事組織をつくる一方,翌年ベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成して,日・仏二重支配に抵抗した。
45年三・九クーデタにより日本軍はフランス領インドシナを解体し,バオダイ帝の独立を認めたが,もはや封建王朝ではベトナム人の支持を得られなかった。
おりから日本軍の調達や天災,南北途絶により北部に200万人が餓死するという大飢饉が起こった。
ベトミンは日本軍からの粋奪還を叫んで,急速に勢力を伸張した。
8月15日の日本軍の降伏とともにバオダイ政府はベトミンによって解体され,9月2日ベトナム民主共和国の独立宣言がホー・チ・ミンによって朗読された。
インドシナ戦争
しかしフランスはこの独立を認めず,1945年南部に,46年末北部に進攻した。第1次インドシナ戦争の始まりである。
フランス軍は当初平野部の制圧に成功したが,チュオン・チンの人民戦線戦術によって,戦線は膠着化し,バオダイ・ベトナム国の擁立やアメリカの大量の軍事援助にもかかわらず,54年ディエンビエンフーに大敗して,撤退に追い込まれた。
同年のジュネーブ会議により,ベトナムは北緯17度線を境に北を民主共和国,南をバオダイ・ベトナム国の統治にゆだね,3年後に統一選挙が施行されることになった。しかし翌55年バオダイを廃してベトナム共和国初代大統領に就任したゴ・ディン・ジェムは,アメリカの軍事・経済援助を背景に,南北分割の恒久化を図って民主共和国と対立し,一方,国内では土地改革に失敗して,旧ターディエン(借佃。小作人)層の反乱を引き起こした。
ベトナム戦争
60年南ベトナム解放民族戦線が結成され,第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が勃発した。
63年ジェムが軍部クーデタによって倒されるや,アメリカ軍は反共橋頭堡としての南ベトナムに直接大量介入を図り,さらに64年のトンキン湾事件を口実に北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始した。
しかし50万人のアメリカ兵投入にもかかわらず,アメリカ軍・南ベトナム政府軍は敗戦を重ね,68年のテト(旧正月)攻勢以降,アメリカ財政の悪化と国際的な平和世論の前にアメリカ軍は撤兵に追い込まれ,73年パリ平和協定が結ばれた。
アメリカ軍撤退後,民主共和国の人民軍と解放戦線軍の優位は決定的となり,75年サイゴンが陥落して,南ベトナム臨時革命政府が南ベトナムの主権を握った。翌76年の統一選挙によって南北両国家は再統一され,ベトナム社会主義共和国が生まれた。
ベトナム社会主義共和国の建国記念日は9月2日であるが,これは1945年にホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の日・仏両国からの独立を宣言した日である。
現在のベトナム社会主義共和国という国名は,76年7月にこのベトナム民主共和国から改称されたものである。
ベトナム民主共和国の領土は,1946年憲法,1959年憲法においても旧サイゴン政権(1975年崩壊)の支配下にあった南部(北緯17ツ 以南)を含むものとされていた。
しかし,1954年のジュネーブ協定調印後,55年にベトナム共和国(南ベトナム)がアメリカの支援を受けて樹立され,以来約20年間,ベトナムには北部に共産主義陣営,南部に自由主義陣営に属する二つの国家が存在することになった。
そのため,75年の南部解放後はベトナム共産党の指導の下で国家機構のみならず経済・社会全般にわたって南北統一事業が推進されることになった。
92年4月に公布された現行憲法によれば,ベトナム社会主義共和国は,現在,〈社会主義への過渡期〉(前文)にある〈人民の人民による人民のための国家〉(第2条)であるが,その実態は〈プロレタリア独裁国家〉である。
そして,この国家を国内外において代表するのは,国家主席である(第101条)。国会は一院制で,任期5年である。
政党としてかつて社会党,民主党などが存在したが,88年に両党が解散してからは,多党制導入は公式に否定されており,現在ではベトナム共産党が唯一の合法政党となっている。
憲法も同党が〈国家を指導し,社会を指導する勢力〉(第4条)と明記している。
したがって,国会代表,閣僚の大半がベトナム共産党の政治局員,中央委員レベルの人々及び一般党員によって占められ,国政への党の指導力が発揮されている。
なお国家機関は〈民主集中の原則〉により組織され,立法機関としての国会,行政機関としての政府,司法機関としての裁判所は存在するものの,〈三権分立〉という概念は否定され,〈三権の役割分担〉の明確化が主張されるにとどまる。
ベトナム戦争中,ベトナムはソ連,中国をはじめとする社会主義諸国から多大な軍事援助を受けてきた。とくにベトナム戦争が激化した1960年代半ば以降,ソ連から対空ミサイル,戦闘機など近代兵器の援助が増大し,ベトナム人民軍の近代化が促進された。75年の南部解放後は,東南アジア随一の軍事力を有する国となった。
1944年12月,わずか34人によって建軍されたベトナム人民軍の兵力は,80年代前半に約170万にまで増大したが,87年以降積極的に進められた兵力削減により97年現在,約70万にまで減少したと推定されている。
なお,軍隊はベトナム共産党の強い指導下に置かれているが,現行憲法では国家主席が全国の人民武装勢力を統率し,国防会議議長の職務につく(第103条)ことになっている。
書きなぐり ベトナム編